「生きることと自己肯定感」高垣忠一郎著を読んで・・・・・・

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 不登校の子どもたちは、しばしば、「みんな学校に行っているのに、自分は学校に行けない情けない、ダメな子だ。」と自分を責め、負い目を感じ「自分が自分であって、ダメなんだ」という自己否定感にとらわれている限り、子どもたちは、それから自己を防衛し、耐えることで精一杯で、新たな人生や生活に向かって動き出せない。
 どうしてそうなってしまうのかと考えても答えはなかなか見つからない。そして、自分のひきこもり状態を否定して苦しむことが悪循環につながっていく。何かいい方法や心理学などで明らかにされている技術を使って学校へ行かせることはできないかという発想にとらわれて、本人にお説教をしたり、叱咤激励することは、本人にとっては、プレッシャーになるだけで、さらに自己否定を強化するだけです。これでは、親が自分の不安を本人にぶっつけているだけで返って逆効果です。まず、親自身が気持ちを安定させることが先決です。
 子どもを「頭の良さ」や「有能さ」などで、値踏みをしたり、他者と比較したりして駆り立てるなど、客体化し、操作的なとらえ方をするのではなく、子どもの発するメッセージに深く共感しつつ、いたわりの気持ちをもって接することが大切です。そういう共感的関係の中で、子どもは元気になり、自分の成長や人生に向かって歩み始め「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感が「安心基地」のように心にふくらんで、負い目や罪悪感へのとらわれから解放されたとき、元気になっていくのいです。
 その自己肯定感は決して、自分には他人に自慢できるところがあるから、人よりも優れたところがあるからと自分を肯定する感覚ではなく、自分にダメなところや弱いところ、悪いところも含め、自分が存在していることはいいことなのだ、許されているのだと、自分をまるごと肯定する存在レベルの自己肯定感です。そういう自己肯定感は身近な人間(たとえば親)にかけがえのない存在としてまるごと愛され、その苦しみに共感され、ありのまま受け容れられるような共感的な人間関係の中で生まれるものです。
 「自己肯定感」という言葉は、セルフ・エスティームの訳語として使われいますが、そのとらえ方には文化的な差違があります。
 「欧米では、「相互独立的自己感」であり、日本や東洋においては「相互協調的自己感」になります。自己に対する見方、あるいは自己の感じ方がずいぶん違うわけです。欧米の自己は、相互に独立していて、それぞれの持っている内的な属性が重視される。能力とか自尊感情とかそういう自分の中のある属性を高めていくことにウエイトをかける。しかし、日本では、自分の内的な属性というよりも他者との関係のなかで生きる自己にウエイトがかかる。他者との関係をよいものにしていくことにウエイトがあるのです。 
 欧米の場合は、自分という個体の内的な能力を高めていくことによって自己を肯定するというニュアンスが強くなるのです。つまり、その自己肯定感は「どうだ、俺はこういうことができる、ああいうこともできる」という類の自己肯定感になりそうです。それに対して、日本の場合はそうではなく、他者との関係のなかで自分を肯定するというニュアンスが強くなります。つまり、その自己肯定感は「私は周囲を信頼している。ありのままを受け容れてもらっている」という自己肯定感になりそうです。
 いま、日本の子どもたちに大切な「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感は「評価による自己肯定感」ではなく「共感による自己肯定感」です。他者との間で共感しあえる、しっかりと調和した居心地のよい関係のなかで「自分が自分であって大丈夫」と安心できる。そういう感覚。それが、私の言う自己肯定感です。・・」・・・・・

 まだまだ、書きたいことがありますが、「生きることと自己肯定感」の本に譲ります。
                                 (文責 竹内)

 

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